西澤 忠
(ゴルフ・ジャーナリスト)
【プロフィール】
1941年生まれ、1965年早稲田大学文学部西洋哲学科卒。同年、ゴルフダイジェスト社入社。
同社発行の月刊「ゴルフダイジェスト」誌編集長を経て、1996年1月にゴルフジャーナリストとして独立。
全国のクラ・チャン169人を集めた試合は炎天下の夏本番に3日間、カレドニアンGCで行われた。昨年のクラブ・チャンピオンが集まって、この戦略性豊かなコースをどのように攻略するのか?との興味で観戦したのだが、J・M・ポーレット設計のレイアウトに全選手が苦戦する姿が随所に見られた。もちろん、ラフを伸ばし、スティンプ・メーターで10フィートの高速グリーン、さらにホール・ロケーションをグリーンの端に寄せるコース・セッティング(佐藤眞彰競技委員長)の所為もあるだろうが、ポーレット設計のテーマ、“危険と報酬”設計にトップ・アマが翻弄されたというのが実感であった。
それは、3日間54ホールのストローク・プレイという短期決戦の舞台で、最終的にトータル2オーバー・146の2選手、寺西明(白鷺)と和田貴之(桜の宮)のプレー・オフの末、寺西のバーディ・フィニッシュで幕を閉じたことからも伺えるだろう。寺西選手の最終日、アウトでマークした4アンダー・32というスコアが大逆転の引き金になったものだが、最終組の6組前でプレーした寺西選手のクラブ・ハウス・リーダー、2オーバーのスコアが重要な伏線になった結果である。
というのも、このゲームで最大の優勝候補に挙げられていた井関剛義(1998年優勝者、2005年日本ミッドアマ優勝者)がトータル2アンダーで首位を迎え、誰がみても彼の優勝を疑わなかったからである。近大ゴルフ部出身で、社会人アマとして日本のナショナル・チームに36歳まで9年間所属、巨躯を駆使したロング・ヒッターである。ただ一つ不安があるとすれば、海外試合の経験はあるものの、関西出身のゴルファーだけに、カレドニアンGCのようなスコットランド指向の戦略型コースに慣れ親しんでいないことが挙げられるだろう。
最終日、“勝ち方を知っている”はずの井関は14番を終わっても1アンダーを保持、続く15番で「バーディを獲りにいった」(井関)ことから崩壊劇が始まる。残り100ヤードの第3打が池でダボ、残り3ホールをボギー・ダボ・ボギーのトータル5オーバー・3位で終わるからだ。
責めるゴルフが裏目に出たといえばそれまでだが、“危険と報酬”設計は皮一枚で背中あわせであることを実感したことだろう。無闇に攻めて報酬に手を伸ばした井関にコースが“しっぺ返し”をしたゲームだと思った。“危険”を承知で攻めるにはその背後に、確かな“技術と謙虚さ”が必要で、カレドニアンGCのクラブ・モットーTAM ARTE QUAM MARTE “力と同様に技も”がドラマを演出したのだろう。