カムバックの一打 金田 武明

金 田 武 明

【プロフィール】
1931年東京生まれ。早稲田大学卒業後、米国・オハイオ州立大学、メリーランド大学院に学び大学院助手となる。
1960年世界アマ(メリオンGC)の日本代表プレーイングキャプテンで出場。
1957年のワールドカップ(霞ヶ関CC)の日本初のTVゴルフ放映で解説と指導をした。
スポーツイラストレイテッド誌アジア代表としてビジネス界で活躍し、日本経済新聞に連載した“ぐりーんさろん”は通算約20年の長寿執筆で好評を得た。
コース設計は1987年完成の「メイプルCC」(岩手・盛岡)をはじめ「シェイクスピア」「トーヤレイク」(北海道)「ノースハンプトン」(秋田)「市営古河ゴルフリンクス」(茨城)などを手がけている。
“霞ヶ関CC”“相模CC”会員。日本ゴルフコース設計者協会元理事長。2006年10月没。

自動車事故で一度死にかけたベン・ホーガン(米)が、奇跡のカムバックを遂げたのは有名な話しである。
その奇跡を呼ぶきっかけとなった一打が「2番アイアンの名ショット」として人々に語り継がれている。事故の翌年の1950年、メリオンで行われた全米オープン、最終日最終ホールでグリーンをとらえたセカンドショットのことである。
よほど劇的だったのだろう、その2番アイアンが直後に盗まれてしまったことでも、その熱狂ぶりが推察できる。

1949年2月、ホーガンが運転する車とバスが衝突した。愛妻バレリーさんといっしょに新車に乗り、8日前に買ったばかりの新居に向かう途中、一瞬にして不幸のどん底に突き落とされた。居合わせた人々は「もう死んだ」と思い、白布を顔にかぶせた。
ところがバレリーさんのかすかなうなり声を聞き、白布をめくってみると、どっこいホーガンは生きていた。

ひん死の状態から脱し、やがて回復期になると、ホーガンは早速ベッドの中で練習を始めた。寝たままクラブを振り回したり、ラバーボールを握りグリップを強化したり、自宅に帰っては階段を上がったり下りたり。
その年の9月にはもうライダー・カップ(プロの英米対抗戦)でノンプレーイング・キャプテンとして英国に渡っている。

翌1950年1月、事故後初めての試合、ロサンゼルス・オープンに出場、280でスニード(米)とタイとなり、プレーオフで敗れた。そして迎えたのが同年メリオンの全米オープンである。

カレドニアン 3番ホール 187ヤード PAR 3

最終日11番までで1オーバー。残る7ホールを2オーバーで回れば優勝という立場になった。
しかしメリオンの14番以降はタフ(距離が長いうえ難しい)で有名である。ホーガンは15番、17番でつまずき、最終18番を前にし、パーなら優勝、ボギーならマングラム、ファジオ(米)とプレーオフという、相当つらい立場に直面した。

18番は458ヤードと長いパー4。左側は並木で下は深いラフ。ここに入ればパーは絶望。右側は森で、あまり右に過ぎると旗は右に寄っていたのでパーは難しい。ホーガンのティーショットはまずまずだった。
だが長く難しいアプローチが残っていた。グリーン手前が段になっていて、距離感が狂いやすい。ホーガンは2番アイアンでこの難しいショットをこなし、ぴたりの距離で旗から約12ヤードにオンさせた。これが勝利を決めた名ショットとして絶賛された。

ひん死の重傷から立ち上がり、翌年の大試合に勝つということは、ホーガンにしかできないことだろう。  翌1951年には全米オープン、マスターズ、1953年にはその2つと全英オープンの三冠に輝き、ホーガンの黄金時代を築いたが、その遠因は、人々のいうように「2番アイアンの名ショット」だったことは間違いないだろう。

ところが最近になってホーガンは「あの時私は2番アイアンではなく、4番ウッドを選ぶ方がよかった」、しかも「2番アイアンで打ったショットも満足できるものではなかった」といっている。

黄金時代を招いた開運の名ショットに対するホーガン自身の評価は、いろいろな点で興味深いと思う。私に関しては、ここで第一に思い浮かべるのが、「俺はミスしてもミスしないショットを練習しているんだ」というホーガンの言葉である。
クラブの選択もスイングもミスした。しかし結果としては開運の名ショットを生んだ。

やはり歴史に残る名ショットは単なる幸運で生まれる性質のものではなく、血のにじむ練習の結果生まれるものだと痛感する。

(2000年3月 TAM ARTE QUAM MARTE 28より抜粋)

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