金 田 武 明
【プロフィール】
1931年東京生まれ。早稲田大学卒業後、米国・オハイオ州立大学、メリーランド大学院に学び大学院助手となる。
1960年世界アマ(メリオンGC)の日本代表プレーイングキャプテンで出場。
1957年のワールドカップ(霞ヶ関CC)の日本初のTVゴルフ放映で解説と指導をした。
スポーツイラストレイテッド誌アジア代表としてビジネス界で活躍し、日本経済新聞に連載した“ぐりーんさろん”は通算約20年の長寿執筆で好評を得た。
コース設計は1987年完成の「メイプルCC」(岩手・盛岡)をはじめ「シェイクスピア」「トーヤレイク」(北海道)「ノースハンプトン」(秋田)「市営古河ゴルフリンクス」(茨城)などを手がけている。
“霞ヶ関CC”“相模CC”会員。日本ゴルフコース設計者協会元理事長。2006年10月没。
エディンバラの東に、イースト・ロージアンというゴルフコースに最も適した地域がある。フォース湾の南岸一帯。マッセルバラからダンバーまでの20マイルだ(北岸側にセント・アンドルースがある)。ゴルフコースが目白押しである。
その中で最も有名なコースは、全英オープンでもおなじみのミュアフィールドである。
1891年以来ミュアフィールドでのジ・オープンは、歴史的なよいゲームになっている。舞台の条件が揃っているからだ。
しかし、今回は趣を変えて、私たちには親しみの少ない不思議なコース”ノースベリック”を紹介したい。
2番ホール 海越えの素晴らしいホールである
ミュアフィールドを一流の料亭とするなら、ノースベリックは一癖のある小料理屋とか居酒屋の存在と似ている。ミュアフィールドは狭く、柔らかい芝生といわれるのに対し、ほんの近くなのに、ノースベリックは広々として硬い芝生という評価なのである。
ミュアフィールドからさらに東に進むと道路が赤いアンツーカーの町、ノースベリックに入る。この海岸のリンクスランドに「イースト」と「ウエスト」の二つのコースがある。プディングを二つに切ったようだと表現するが、有名なのは“ザ・ウエスト・リンクス”である。
自然環境は恵まれている。6000年前に100フィート以上隆起した岩の上に砂が吹き付けをくり返し、今日のランドが出来上がった。スコットランドは海岸線に恵まれているが、リンクスランドはわずか4パーセントしかない。こう聞くとリンクスの」希少価値がわかってくる。
13番ホール このラインが最高
さて、プレイ。クラブハウスには行かず、スタート小屋のプロを訪ねる。グリーンフィを払って切符を受け、1番ティへ向かって行く。「いつでも、どうぞ」“Please play away, any time”
リンクスランドらしく強風。しかも逆風。1番から9番までは全ホールが向かい風になる。天候が変わらなければ、インは全ホールが追い風となる計算だ。
1番のグリーンは小高くなっているから、少なくとも2クラブは大きめで攻めるしかない。プレイ後に感じたのだが、2番の海越えのティショットを打った時から18番のティにたどり着くまで、私は別世界にいたような気がした。
それはちょうど、アリスが不思議の国に迷い込んだ話のようだった。
13番グリーン このグリーンを乗用モワーで刈る腕前は見事
なにしろゴルフが面白い。ティに立つといくつかのルートが見える。「あのマウンドの右あたりならいけそうだな」と思えるのである。第2打地点に行くと旗がなびいているのが見える。逆光の強い日だったが、バンカーとかラフが輝くから、そのラインを逃げようと思えるのだ。
もちろん風の計算は難しい。リンクスの風は重い。このコースの伝説的な存在で、パター造りでも有名だった超小柄なベン・セイヤーは非凡なショートゲームを駆使する達人だったが、このノースベリックで鍛えられたことを思い出す。
17番を終わりマウンドを上がると18番のティ。右側は町の人々が利用する道。パブリックのパッティング・グリーンの騒音が聞こえてくる。ここで我にかえった。もう町中である。
実に不思議な経験だった。ゴルフの摩訶不思議さそのもののノースベリックである。
無料でできるパッティング・グリーン
ピクニックと思えばよい
(2003年8月 TAM ARTE QUAM MARTE 38より抜粋)
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