金 田 武 明
【プロフィール】
1931年東京生まれ。早稲田大学卒業後、米国・オハイオ州立大学、メリーランド大学院に学び大学院助手となる。
1960年世界アマ(メリオンGC)の日本代表プレーイングキャプテンで出場。
1957年のワールドカップ(霞ヶ関CC)の日本初のTVゴルフ放映で解説と指導をした。
スポーツイラストレイテッド誌アジア代表としてビジネス界で活躍し、日本経済新聞に連載した“ぐりーんさろん”は通算約20年の長寿執筆で好評を得た。
コース設計は1987年完成の「メイプルCC」(岩手・盛岡)をはじめ「シェイクスピア」「トーヤレイク」(北海道)「ノースハンプトン」(秋田)「市営古河ゴルフリンクス」(茨城)などを手がけている。
“霞ヶ関CC”“相模CC”会員。日本ゴルフコース設計者協会元理事長。2006年10月没。
シネコックヒルズとメイドストーン、そしてナショナル・ゴルフリンクス・オブ・アメリカ(NGLA)といえば幻的な存在ということで、ニューヨークあたりで話題になる3コースだ。
なぜかというと、コースの存在は知っていても至極不便な地であり、その上、会員は地元の人が多く決して社交性のある人たちではない。ロングアイランド」のハンプトンといえば世の中に背を向けている人が多いところだからである。
距離的にはたいしたことはないが、現在でもそこに行くには2時間以上かかる。ましてや100年以上も前は、交通手段といえば馬車しかなかった。
この辺境の地にコースを造ったのは、当時のゴルフに対する情熱の高さと考えるべきだろう。1894年当時、米国にあったコースは20だったが、1898年までの4年間に611と急増している。
米国の1875年~1900年は発明の黄金時代だった。電話、電灯、ファスナー、イーストマン・コダックによるロール・フィルム、エディソンの映写機などめぼしい発明があったからだ。世界第4位の産業国が第1位に躍り出た。
スポーツでも新局面を迎えている。ケンタッキー・ダービーが始まり、ポロ、ローン・テニスが導入され、当然のこととして、スポーツの組織化もこの時代だった。その中にゴルフもあった。1888年、スコットランドから移住したジョン・リードがセント・アンドリュース・ゴルフ・クラブ(ニューヨーク州ヨンカース)をリンゴ畑の中に3ホールをつくって始まった。
1880年代後半、W・バンダービルト、E・ミード、D・クライダーの3人が仏の避暑地ビュアリッツを訪れ、偶然にゴルフを見る。コース造成中のスコットランドのプロ、ウイリー・ダン・ジュニアとの出会いだった。
ダンは谷越え125ヤード・ホールでこの旦那衆に美技を披露する。ガッタパーチャ・ボールが「カチーン」と大げさな音を立てて飛び出しグリーンに乗る。
「これはライフルよりも正確だし、遠くへ行く。みんなが好きになるぞ」
バンダービルトは米国にダンを招くことにした。
ウイリー・ダンはスコットランドが誇りとするゴルフ家族の一員だった。父のダン・シニア、兄のトム・ダンなども輝かしい球歴を持ち、さらにグリーン・キーピング、ゴルフ・プロフェッショナルとしてさまざまな倶楽部のために力を尽くしている。
ダンはバンダービルドの誘いを受けながら「フランスこそ次の時代にゴルフ王国になる」と確信していたようだ。しかしフランスでの約束を果たした後、ダンは1891年にサザンプトンの現地に到着した。
ペコニック湾を見下ろすリンクスランドはよい地形だったが、おそらくダンが驚いたのは勢いのよいブルーベリーとブラックベリーに覆われた原野だったに違いない。
労働者は全員がゴルフに関しては無知のインディアンが150人。飲み終わったウイスキーのビンを砂の中に埋める。それがバンカーとは知らないから後始末が大変だったらしい。造成も妙な形のマウンドが利用された。インディアンの墓地だったからである。これは近代でもよくあることだ。オハイオのミュアフィールドの造成中にもお目にかかったことがある。
バンカーの古いハシゴ
ゴルフを知らぬ中から、二人の逸物の登場もあった。一人はシネコック・インディアンのオスカー・バン。もう一人は黒人ジョーン・シッペン・ジュニアだった。1896年の全米オープンがシネコックヒルズで開催されたとき、16歳のシッペンのプレイが話題の中心となった。
一緒にプレイしたベテラン、チャールス・マクドナルドは83、シッペンは78で上がり、マクドナルドはよほど恥ずかしかったのか、途中で棄権してしまった。“白人に限る”という協会の方針はこの頃なかったが、シッペンとバンは不愉快な思いをしたに違いない。
1892年、シネコックの丘に立派なクラブハウスが建つ。スタンリー・ホワイトの設計で現在もほとんど昔の姿を保っている。このハウスのおかげでシネコックヒルズは多忙を極め、資金も潤沢になった。いろいろな点で新しさがいっぱいだった。
ゴルフ専用のハウスも初めてだったし、会員は可能な限り地元の人間、しかもお互いに許せる交際範囲に限ったのも初めてだった。
このコースを設計したウイリー・ダン・ジュニアは1894年に非公式の全米オープンに勝っている。
そのときはマッチプレイで覇を競った。シネコックヒルズで最初のラウンドをし、翌日、ハドソン川のほとりのヨンカーズで決着をつけている。1895年、ニューポートでの全米オープンでは一歩届かず次位に甘んじた。
1896年はシネコックヒルズで再び開催されたが、ダンはついに勝運に見放された。
最も、このときに生まれたシネコックヒルズは1931年に名匠ディック・ウイルソンによって息を吹き返した。私はプレイする前にハウス横の古いバンカーに梯子を見つけて胸をときめかせた。
ダンの造った古いコースの名残りなのか、婦人用の梯子なのか会員に尋ねても的確な返事はなかった。
人は変わるが、コースは生き続けているようだ。
(2004年6月 TAM ARTE QUAM MARTE 40より抜粋)
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