15年に一度、グリーンの健康と復元に手を尽くす名門 金田 武明

金 田 武 明

【プロフィール】
1931年東京生まれ。早稲田大学卒業後、米国・オハイオ州立大学、メリーランド大学院に学び大学院助手となる。
1960年世界アマ(メリオンGC)の日本代表プレーイングキャプテンで出場。
1957年のワールドカップ(霞ヶ関CC)の日本初のTVゴルフ放映で解説と指導をした。
スポーツイラストレイテッド誌アジア代表としてビジネス界で活躍し、日本経済新聞に連載した“ぐりーんさろん”は通算約20年の長寿執筆で好評を得た。
コース設計は1987年完成の「メイプルCC」(岩手・盛岡)をはじめ「シェイクスピア」「トーヤレイク」(北海道)「ノースハンプトン」(秋田)「市営古河ゴルフリンクス」(茨城)などを手がけている。
“霞ヶ関CC”“相模CC”会員。日本ゴルフコース設計者協会元理事長。2006年10月没。

航空機が交通手段になって大きく変わった地域がある。1960年代のハワイがそうだった。日本人に親しみ深いハワイアン・オープンも一昔前までは小さなローカルの試合だったが、現在ではかなり価値のある大試合になった。

それより航空機により大きく変わった地域はオーストラリアである。1969年のカナダ・カップ(現在のワールド・カップ)がオーストラリアで開催されたとき、世界の片隅にあったロイヤル・メルボルンに脚光が当たり、世界中のゴルファーはこの宝石のようなコースに驚いた。

1924年にメルボルンは三度目の引越しをしている。よほど豊かだったのか、“値段を気にせず”土地を入手しているからである。歴史的に見ると経済がもっとも豊かな時代でしかできない芸当だった。
私はかねがね思っているのだが、ゴルフ場の生まれる背景は時代、経済事情、技術者、すなわち金、物、人が揃って始めて可能なのである。メルボルンはこの三位一体の理想的な組み合わせだった。

1926年10月に上昇機運にあったアリスター・マッケンジー博士はメルボルンのコースの設計を依頼された。ちょうどこの時代、博士の熱はオーストラリア、ニュージーランドに向いていた。オーストラリアは昔からセント・アンドルースの流れを汲む“クラシック・ゴルファー”によってゴルフの伝統を受け継いでいた。博士は英国生まれだが、両親の影響もありスコットランドのゲーリッグ語が得意で、“強烈な”スコットランド訛りに惚れていた。

オーストラリアに着いた博士は1924年のオーストラリアン・オープンのチャンピオン、アレックス・ラッセルをパートナーとして選んだ。博士がゴルフの名手をパートナーとして選んだのは、自分のゴルフ技術の不足を補うことが多かった。
オーガスタの設計にボビー・ジョーンズがパートナーだったことでもわかる。

迫力満点の空に浮かぶバンカーは見事だ

その後ラッセルは、博士が自分の用を終えて次の国へ去った後メルボルンのイースト・コースを設計・完成させている。博士の腕に遜色のないイースト・コースの出来は驚異的である。
両人の考え方がひとつにまとまりメルボルンは生まれたわけだが、1969年のカナダ・カップ開催に二つのコースを一つのチャンピオン・コースに仕上げることになった。ラッセルの18ホールから6ホールが選ばれている。
これも珍しいケースで、たいていの場合、ひとつのコースに偏りがちである。

実のところメルボルンには第三の男がいた。クラウド・クロックフォード(1934年入社)というグリーン・キーパーの存在だった。
クロックフォード独自の設計、施工のホールもある。大設計家の仕事には手をつけないのがキーパーとしては常識だった。しかし、クロックフォードはプレイに不都合のあったパー3の7番のグリーンを削り取り、ティからグリーンの面を見せるようにしてまったく性格の異なるホールに仕上げ、今日に至っている。
ティからグリーン面を見えないようにするマッケンジーの妙な癖を無言のうちに正しているのだから、人格も高潔だったと思える。

肝心なグリーンの状態だが、この場所が大洪水と旱魃という恵まれない気象条件を克服している。クロックフォードは世界で例を見ない大手術をしているが、それがこのコースのグリーンを保っている知恵に違いない。

15年に一回、グリーンは大手術を受ける。6フィート、幅1フィートに芝生を切り取り注意深く裏返す。約6インチのルートゾーンを切り取る。この部分に病菌が多いからで、この手術によって健康なルートゾーンが生まれ変わるのである。

バンカーの位置・深さにうなるが、景観にも圧倒される

手術後、グリーンは元の状態に戻す。この仕事も現在はカメラ技術が進歩していて容易に復元できるだろうが、それまでのグリーンの復元はおそらく手仕事で苦労も多かったことだろう。
印象深いホールがいくつかある。たとえば5番170ヤード。一見すると平凡なホールだが、バンカー砂面を大胆に造り上げたマッケンジーの力に私は驚かされた。グリーンを守るバンカーの深さ、位置は注意深いゴルファーをうならせるものだからだ。

グリーン直前は手のひらを広げたように見えて安全と思える。しかし、実際にボールを打ってみると一筋縄ではいかない。スロープが意外にきついからだ。

ここを訪れる前から私が好きだったのは、14番470ヤードである。ティに立つと迫力満点のバンカーが空に浮かぶ。このセットアップにも驚かされる。しかも見事だ。バンカーの大きさも、位置も、周囲の景観を圧している。
攻め方としてなるべく右へボールを置くようにしたいが、右のトラブルに入る危険を覚悟しないといけない。バンカーの左側は安全だが、470ヤードが500ヤード以上になる。パー5に近い距離となるからである。

その後のマッケンジーは米国に居を移し、オーガスタを生み、サイプレスポイントをも生んだ。最終的には1934年にパサティエンポを完成させたが、そのコース横の質素な家で急逝してしまった。
博士はメルボルンで壮大な実験をしたように思えてならない。サイプレスの16番をオーストラリアのサウスウエストで実験のために造っているが、メルボルンは博士の大実験の場だったと思うのである。
これからいいコースを造るという構想に満ちあふれていたのではないだろうか。

(2005年7月 TAM ARTE QUAM MARTE 42より抜粋)

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