「カレドニアン」を愛する人々、故・中部銀次郎と金田武明氏 西澤 忠

西澤 忠
(ゴルフ・ジャーナリスト)

【プロフィール】
1941年生まれ、1965年早稲田大学文学部西洋哲学科卒。同年、ゴルフダイジェスト社入社。
同社発行の月刊「ゴルフダイジェスト」誌編集長を経て、1996年1月にゴルフジャーナリストとして独立。

中部銀次郎氏の一周忌ゴルフの話をこのコラムで書いたら、以前から知り合いのメンバー氏から手紙を頂いた。「そんなに素晴らしいゴルフの会があったとは少しも知りませんでした。もし知っていたら参加したかったのに・・」と恨まれた。

「カレドニアン」には金田武明氏ゆかりの競技があると聞いているが、中部氏を囲んだコンペはプライベートな懇親コンペだったので、会員諸氏に声をかける性質のものではなかったのである。
金田氏と中部氏といえば、その昔から日本アマチュア界をリードしたトップ・アマで、一世代の年齢差を越えたゴルフの交遊があった。「霞ヶ関」のクラチャンで米国留学経験のある金田氏がキャプテンとして出場した1960年の世界アマ・チーム選手権で、代表選手の一員として当時18歳の中部氏(以下敬称略)も初参加したからである。

他に石本喜義、田中誠らの代表選手の中では最年少で、まだ“下関の天才アマ高校生”とマスコミで騒がれた頃、正確にいえば慶応義塾大の入試に失敗した浪人生だった。

舞台となったアメリカの名門「メリオンGC」には20歳のジャック・ニクラスがアメリカ代表選手として出場しており、試合は彼の圧倒的強さでアメリカ・チームの完勝だった。4日間すべてを60台の記録的スコアはやはり“オハイオの神童”といわれたニクラスの世界デビューとなった。

「凄い選手がいると聞いて、最終グリーンに見物に行ったら、ニクラスが3パットした。なんだ普通の選手じゃないか? と思ったら、それでも60台のスコア、ビックリしました。なにしろ、日本選手が泣かされた深いラフから2アイアンで打てるパワーに驚き、私のレベルではない、私がめざすべきは日本一だな、と理解した」と話してくれた。中部が335、ニクラスが269で、その差が66ストロークなのだから無理もない。

この時に受けたカルチャー・ショックがその後の中部に日本アマ選手権を6回勝たせる原動力になったというのは牽強付会すぎるだろうか。

金田氏はその後、ゴルフ・ジャーナリストとして健筆を奮いながら、テレビのゴルフ番組など手がける。当時の“ビッグ・スリー”パーマー、ニクラス、プレーヤーのエキシビジョン・マッチやニクラスのレッスン番組を演出したものだが、1973年、NHKテレビが企画したマッチでニクラスと中部が「横浜CC」でラウンドした時も司会役をこなしたのは金田氏だった。

プロとして全盛のニクラス、日本を代表するトップ・アマの中部のラウンドを収めたビデオ・テープが一周忌の会合で仲間に配られ、今でも時折眺める。初めてプレーするコースで、ニクラスが64、中部が73であった。
が、金田氏のプロデュースした番組意図は1打ごとのショットの合間にニクラスがどんな戦略とショットをイメージするか?を解き明かすこと。ショットの合間にインタビューが入るレッスン的意味あいのゲームだったことを考えると、両者とも完璧なプレーだった。

このように、日本のゴルフが国際化し始める1970年代に、金田氏の果した役割を思うと意義深いものがある。英米のゴルフ思想を紹介し、アマチュアリズムとは?プロの奥義とは?コース設計とは?などを長年にわたってペンで普及しているのだから。

中部は18歳で世界進出よりも、“井の中の蛙”でいいと達観したが、青木功を筆頭に丸山茂樹、伊沢利光と今の若手プロが世界をめざしている。ゴルフ先進国のアメリカを知り、日本のゴルフを世界に眼を開かせる一翼を金田氏が担ったといえるだろう。

そして、そんな二人のアマチュア・ゴルファーがここ「カレドニアン」をこよなく愛したことをメンバー諸氏はもっと誇りにしていいと思う。

いいゴルフクラブとは、いいコースを持っていることはもちろんだが、どんないい人物がメンバーとしてプレーしているかも重要な条件だからである。
背筋をピンとのばした故・中部銀次郎が歩いたグリーンを、いま我われが踏みしめているのだと思うと、生きていることを実感しながらも、中部に恥ずかしくないスマートなプレーを心がけたいと、素直に思う。

『TAM ARTE QUAM MARTE』第38号より抜粋