故・中部銀次郎が残してくれたもの 西澤 忠

西澤 忠
(ゴルフ・ジャーナリスト)

【プロフィール】
1941年生まれ、1965年早稲田大学文学部西洋哲学科卒。同年、ゴルフダイジェスト社入社。
同社発行の月刊「ゴルフダイジェスト」誌編集長を経て、1996年1月にゴルフジャーナリストとして独立。

昨年のシニア選手権に初めて優勝したメンバーの平野育男さんが勝利者談話を載せていた会報を読んで、あまりに懐かしいので久し振りに「富里」で逢い、プレーした。
雪の降る天気予報に反して上天気に恵まれ、やはり“ゴルフはパートナーといいコースで幸せな気分になれる”と感じ入ったものである。

・・・ところで、スコットランドでプレーした経験が優勝の原動力になった、と語ってましたよね。雨でも、風が吹いても自分のゴルフが出来るようになったとか。それまでは温室育ちのゴルフだったわけですか?
「プレー日の朝、雨でも降っていると、今日は駄目だとか、どうでもいいや、とステバチな気分になって、粘りのあるゴルフができなかったのです。

でも、コース設計家の加藤俊輔さんと行ったスコットランドのリンクス・ツアーでラウンドするうちに、風も雨もゴルフの一部、どんな天候でも自分の力量の中で、ベストなプレーをするんだというゴルフの原則に目覚めることができたんです。ひさしぶりに優勝できたのも、リンクス・ゴルフを体験したおかげだと思います」

実は、その2002年夏のスコットランド・アイルランド・ウェールスのリンクス・ツアーには僕もご一緒したお仲間だった。「セントアンドリュース」はもちろんのこと、北スコットランドの「ロイヤル・ドーノック」からアイルランドの「ロイヤル・ポートラッシュ」など3カ国12コースを巡る過酷なツアーだった。
当然なことに雨の日も風の日もあり、リンクスに翻弄されて帰って来たのだが、自分でも気がつかないうちに平野さんは“ゴルフの本流”を実感していたのではないだろうか。

かつては「富里」のクラブ選手権(1998年)、理事長杯(2000年)に勝っていた平野さんだが、しばらく勝利から遠ざかっていたのだが、復活した背景にはそんな理由があったらしい。

よく考えてみれば、それもそのはずで、「富里」も「カレドニアン」もM・ポーレットの設計。彼はスコットランドのリンクス哲学を日本風土に再現したのだから。

もうひとつ平野さんとのラウンドでうれしかったことは、彼が中部銀次郎のワン・ヒント・アドバイスを取り入れて、見事なショットを見せてくれたことだった。
「ボールを見ろ、とはよく言われますけど、インパクトでどうもボールを見ていられない。それが難しい」と、平野さんが言うので、中部銀次郎から聞いたアドバイスを披露したら、たちまちショットの精度が増し、ボールがツカマリ出したのだ。

そのヒントとは、「スイング中にボールを見ろと言われても、一般アマは漠然と見るだけ。ボール全体の輪郭を見るのではなく、ボールのディンプル1個を見て打てば、ショットは良くなるはずです」というもの。
「さすが!憧れの中部さんだけに良いことを言いますね。またひとつ開眼しましたよ」と喜んでくれたのだ。

日本アマ選手権に6回も優勝したトップ・アマ、中部銀次郎が亡くなって3年半が経過したが、彼の遺してくれたヒントは今でも生きていると思った。技術的なヒントは数限りなくあり、それは“中部ブック”となって多くの読者に読まれている。59歳と早くに亡くなった彼だが、遺してくれたものは大きいのだ。

プレー中に、そんな“中部語録”を想い出しても、即座にヒントが活きることはないものだが、平野さんの場合はこれまで培った技術的な財産が並ではない証拠。ヒントを活かすだけの技量が備わっていたのに違いない。
晩年になって交際のあったおかげで、彼の形見として戴いたものも数多い。そのうちのひとつ、ブルーのセーターを当日は着ていたので、帰りがけに平野さんにプレゼントさせてもらった。
「これも、中部が私たちに遺してくれたものです」と言って・・・。

『TAM ARTE QUAM MARTE』42号より抜粋