故・中部銀次郎氏と「富里」「カレドニアン」の優雅な日々 西澤忠

西澤 忠
(ゴルフ・ジャーナリスト)

【プロフィール】
1941年生まれ、1965年早稲田大学文学部西洋哲学科卒。同年、ゴルフダイジェスト社入社。
同社発行の月刊「ゴルフダイジェスト」誌編集長を経て、1996年1月にゴルフジャーナリストとして独立。

昨年(2001年)の暮れ12月14日に食道ガンのため、59歳で逝去した中部銀次郎氏は、「富里」「カレドニアン」の名誉会員でもあった。

縁あって早川治良社長との面識を得てゴルフを通じた交際の中から、両者のゴルフ仲間による[C&C]コンペを開催するうちに、すっかりもうひとつのホーム・コースになったような次第である。中部銀次郎氏にとって本来のホーム・コースは「東京ゴルフ倶楽部」だったが、ゴルフ人生の晩年にはそちらより頻繁に「カレドニアン」「富里」に足を運んでいたようである。

小学生の頃からクラブを握り始めた中部銀次郎氏はいわば古いゴルファーで、「下関」に始まって「広野」、そして社会人になって「東京」と推移したホーム・コースは日本の伝統的コースばかり。
だから、マイケル・ポーレット設計のモダンなアメリカン・タイプのコースには違和感が生じないか?と訝ったものだった。しかし、それはどうやら杞憂だった。

日本アマに6回優勝という輝かしい戦績を残した中部銀次郎氏は世界各地で行われた世界アマの日本代表としても7回戦った。

現役選手を退いた後も、キャプテンとして参加し、1984年香港大会では日本チームを優勝に導いている。世界アマは各国の名コースを舞台にするから、海外コースのプレー経験も豊富だったのだ。
中でも1974年、ドミニカ共和国での大会は、ピート・ダイ設計の難コースで有名な「カフュレス」(別名ティース・オブ・ドッグ=犬の歯)を舞台に行われ、ここでの体験が中部銀次郎氏のコース観に幅と奥行きをもたらしたらしい。

「なにしろ、想像を越えるコースだった。サンゴ礁で築いたグリーンやティが大西洋の荒波に洗われるホールが7つもあって、その上に強風。日本では考えられないホール設定はカルチャー・ショックだった。グリーンのアンジュレーションひとつとっても、カップを背中越しに見て、大きくスライスするパッティング・ラインがあったりするのですから・・・」

それでも日本チーム(中部銀次郎、阪田哲男、森道応、倉本昌弘)はジェリー・ペイト率いるアメリカ・チームに次いで二位だった。
「あのコースでプレーしたら、もうこの世で怖いコースはないと思いましたね。ただ、あれが日本にあったら体力的に攻略不可能だし、拒絶反応が生じるでしょう」とも言っていた。
そんなことあって、ポーレットのレイアウトはリーズナブルだし、戦前からある日本の林間コースにはないプレーの醍醐味を愉しんでいたのだろう。

俗っぽい話で恐縮だが、中部銀次郎氏とプレーして、ダボ以上のスコアを叩いた姿は見たことがない。
朝、スタート前にアイアンのバック・フェースを鏡代りに覗く仕草を見せるから、こちらは「夕べ、だいぶお酒が過ぎたのかな?」と心配する。
しかし、赤い目を気にしながら前半のハーフで3オーバーしても、後半にかならずパー・プレーして帳尻を合わせてくるのだった。どんなトラブルに見舞われても、慌てず騒がず冷静に対処して、けっして“余計なことは言わない、しない、考えない”。その爽やかなプレーぶりは高原のカラ松林を吹き抜けるそよ風に似ていた。

今思えば、早川社長、中部銀次郎氏を中心にクラブ・ハウスのレストランで小宴をはり、ライト・アップされた戸外のグリーンを見ながらゴルフ談議に花を咲かせた頃が懐かしい。
 この秋、一周忌を迎えたら、その中部銀次郎を偲ぶゴルフを集いを「カレドニアン」で開きたいと今、考えている。

カレドニアンで元気にプレーしていた在りし日の中部氏

(2002年5月 TAM ARTE QUAM MARTE 35より抜粋)

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