西澤 忠
(ゴルフ・ジャーナリスト)
【プロフィール】
1941年生まれ、1965年早稲田大学文学部西洋哲学科卒。同年、ゴルフダイジェスト社入社。
同社発行の月刊「ゴルフダイジェスト」誌編集長を経て、1996年1月にゴルフジャーナリストとして独立。
中部銀次郎氏が他界して、この冬一周忌を迎える。東京・中野の宝仙寺で営まれた葬儀に参列した会葬者が数千人、厚手のコートを脱いで、寒さの中を黙々と焼香する黒い列が瞼の奥に焼きついて離れない。
その誰もが、彼の颯爽とフェアウェイを往く姿を思い起こし、二度とあの綺麗なスイングを見られない悲しみに沈んでいたのだった。
晩年、何度か同伴したカレドニアンでのプレーでは、すでに現役選手を退いていたので、気楽な遊び気分のゴルフではあったが、ゴルフに取り組む姿勢は選手時代と寸分違わぬ真摯なものだった。“真摯”は“紳士”に通じ、けっして怠惰に流れることがなかった。同伴プレーヤーのロスト・ボール捜しやピン持ちをするシーンだけは選手時代のプレー・スタイルと違ったが。
たとえば、スタート時間を迎えるまでの“中部式時間割”。
「明日の朝は、6時30分に迎えに来て。待ってるから」
彼の家の前に6時25分にクルマを着け、一服していると、薄明かりの中にゴルフバッグとボストン、ジャケットを片手に静かに現れる。クラブ・ハウスには必ずスタート時間の1時間前に到着、それからが判を捺したように正確な時間割が始まる。
フロントでチェックイン。ロッカーで着替え。食堂に上がって和定食。煙草を一服してトイレに。練習場には2番アイアン一本だけを持参。まず、ウォームアップはドーナツ状の重いリングをクラブのネックにつけての素振り。ボール一箱を打ち終われば次は練習グリーンへ。端っこのカップに向けて2~3メートルを転がして、1番ティへ・・・・
この一連の動作がどこのゴルフ場へ赴いても同じなのだった。その流れるような時間割は慌てず騒がずで、まさに“悠々として急げ”の趣きなのだった。
在りし日の中部氏
富里ではインコース側にあるアプローチ、バンカー練習場でスタート前に熱心に球を打っていた。
最初は40ヤード地点からピンに向かって高く、低くボールを打ち、次にグリーンまわりをひとまわりするように様々な打ち方で転がりをテスト、最後にパッティング・グリーンでグリーンをテストしてゆったりとスタートへ向かっていた。
富里コースについて、18ホールのレイアウトが変幻極まりない面白さを愉しんでいたものだが、ひとつだけ気になる感想があった。
それは、16番パー3のグリーンについて、あるときこう言ったのだ。
「マイケル・ポーレットの設計は、日本の古いコースにないデザインが目立って面白いが、あのグリーンの左にピンが立つ時は日本人の体力では攻めきれない。ポーレットはここが日本であることを忘れて設計したのだろうか?」
池越しにグリーンを狙う16番ホールはコース終盤のタフなホール設定で、難関の要素はグリーンの形と最大3%の受け勾配。ピンが花道に続く右に立つ場合はいいのだが、バンカー越しの左は奥行き10メートルもない難所。そのピンへ長いアイアンでボールを止める体力は日本人にない、という苦言だった。
そう言えば、何度かプレーした限りでは、左寄りのピン位置で16番をプレーした経験がない。普段でも滅多に立てないのかもしれない。
富里ゴルフ倶楽部 16番グリーン
(2002年5月 TAM ARTE QUAM MARTE 36より抜粋)
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