西澤 忠
(ゴルフ・ジャーナリスト)
【プロフィール】
1941年生まれ、1965年早稲田大学文学部西洋哲学科卒。同年、ゴルフダイジェスト社入社。
同社発行の月刊「ゴルフダイジェスト」誌編集長を経て、1996年1月にゴルフジャーナリストとして独立。
中部銀次郎氏が他界して、一周忌にあたる昨年暮れ、『伝説のアマチュアゴルファー・中部銀次郎展』なる催しが横浜と日本橋・高島屋で開催された。日本アマチュア選手権6回優勝の故人の業績を示す展示品は6個の優勝カップのレプリカから晩年使用していたクラブ・セットまで多彩で、愛用パターの復刻版、中部銀次郎ラベルの鹿児島焼酎、著書などの展示即売もあって盛り沢山な内容であった。
期間中には会場の一画で、関係者によるトーク・ショーが行われて、多くの聴衆がありし日の中部銀次郎氏を偲んだ。
例えば、倉本昌弘と湯原信光プロのトーク・ショーでは、
「中部さんの病気療養中、入院したことは知っていましたが、故意に見舞いに行きませんでした。僕にとって中部さんの思い出は強かった時代の元気な姿のまま脳裏に残しておきたかったからです」(倉本)
「僕が日大を卒業してプロ入りするときに、中部さんには大反対されました。三日三晩、深夜まで説得されました。でも、最後には“アマチュアの心を忘れないプロになる”ことを条件に許してもらいました」(湯原)
などの発言に、しばし会場がシーンと静まる一瞬があった。
それぞれの人に、それぞれの中部銀次郎が生きている・・・・それを実感した一周忌の頃、ここカレドニアンGCでも中部氏の偲ぶゴルフ会が催された。
実は、故人と早川社長が面識を得た10数年ほど前から、両者のゴルフ仲間(カレドニアンGCの会員と中部氏の友人)の交流を図るコンペが発足して、カレドニアンGCと久慈大洋GC(茨城県にある中部銀次郎設計監修コースで、故人が会長職にあった)の2コースで交互に開催していたのだ。
9年ほど続いたゴルフ会も、中部氏が食道ガンと闘った3年半は中断、そして故人となったことからピリオドを打つ会になったわけだ。
12月初旬、寒さが心配されたものだが、朝から陽光の暖かい一日となり、中部克子夫人と長女のマリ子さんを中心に、生前に交流のあった親しい仲間だけのゴルフは無事終わった。優勝カップにその日の勝者名を刻むだけで、賞品を出さないことをモットーとしたゴルフ会は中部銀次郎氏を囲んでゴルフ談議をするパーティが主で、プレーよりそちらを愉しみに集うのが習わしだった。
だから、プレー後のコンペ・ルームに中部氏の遺影を飾り、参加者全員が献花をした。
その後、一人ずつ思い出を語りあったパーティは中部氏のゴルフ論、マナー、スウィング論などからお酒の飲み方まで多岐にわたり、盛り上がった。まるで中部銀次郎氏がつかの間の退席からいまにも帰って来て、「また、私の悪口を喋っていたのだろう?」と言いながら現れるのではないかという錯覚に、何度も陥った。
そして、最後に、中部克子夫人が立ち、挨拶した言葉が忘れられない。恐らく参加したすべての人がその言葉を噛みしめて、胸に刻んだようであった。
「いろいろな方がそれぞれの銀次郎を心に持っていて下さるのがとても嬉しかった。又、それだけ心に残る人だったのだと改めて思いました」
早川社長としては、カレドニアンGCの名誉会員でもあった中部銀次郎氏が亡くなり、ゆかりのコンペも最後になることが寂しいらしく、「三回忌、十回忌といつまでも機会をみて集まりませんか?」と心残りのようだったが、過去19人の優勝者名を刻んだトロフィー(そこには中部銀次郎氏の名もある)をクラブに永久保存することを約束してくれた。
「人の死は季節が一巡するまでは癒えないもの」と言われるが、生涯一アマチュアを通した純粋・無垢なゴルファー、中部銀次郎氏の場合は一巡だけで済むものだろうか?
(2002年5月 TAM ARTE QUAM MARTE 36より抜粋)
※ 社名、役職等は会報誌発行当時のものとなります。
※ 一部の画像は、出版物から利用しているため、見づらい場合があります。予めご了承ください。